日本人と理気二元論
前回の続きとして書いています。
理気二元論自体のコンセプトは良いと思います。
特に間違っているという印象もありません。
儒教の生まれたアジア大陸は大空と大地の続くスケールの大きいまさに大陸であり、天地人の価値観が作られていくのは道理です。
また、言葉の違いがあるだけで今や普遍的な考え方であると考えます。
日本にも朱子学は入ってきていますし、神道や仏教もありますので、形而上の話は馴染みが深いからです。
日本の背景もみておきます。
まず神道的な話からです。
日本は四季折々の豊かで厳かな大自然に囲まれた土地でありますから、万物に霊的なエネルギーが宿っており、それを神聖視してきた背景があります。
自然や生物のエネルギーは時として、暴れますのでそれを鎮めてきました。
暴れる理由、それは魂に汚れが付着していたり、魂が強く揺さぶられているからです。
その汚れを払ったり鎮めたりするトップバッターが各地にいる神主であり、神主の地位の最高位を天皇とし、世襲として我々を守ってきたわけです。ですから尊ばれているわけです。現在も様々な祭祀を執り行っています。
その天皇家の歴史を紐解いたときに、地球人の先祖は天から降りてきていると書かれています。我々の先祖は天皇家に繋がっていますから、我々は宇宙人の子孫であると明言しているわけです。
また、感受性の強い方は宇宙や地球、生き物から発せられるエネルギーの違い等を見たり聴いたり感じたりするでしょうから、体感として理解できると思います。
次に仏教的な話をします。
日本は大陸からやってきた仏教の価値観も有しています。
面白いことに日本の仏教は原始仏教とは違い、あらゆる宗教が混合された密教が中心に信仰対象となっています。
原始仏教は誤解を恐れずにいえば、生きるって苦しいよね?頭すっからかんにしてボーッとしていれば何も考えないから楽だよ?というテクニックのメソッドであり、現代の座禅につながっています。その空っぽの状態に気がつくことが悟りです。悟りのまま生きることができたらきっと楽ちんでしょう。
しかし一般に浸透したのは密教です。大きな違いは信仰する対象があります。
これは神道との親和性が高かったからかもしれません。
一心不乱に祈念しているその瞬間は楽ちんになっていますので、その状態に気がつけば悟れるという点では一緒です。後は信仰する状態のまま生きていればきっと楽ちんでしょう。
違いは自力救済か他力救済かというぐらいでご自身が楽になっていることに変わりはありませんので、各人の責任において何でも良いと思います。
このように、仏教を通じて精神の修養方法として利用できるところを利用してきました。
さて話を理気二元論へ戻します。
まず「性」の話からです。
日本人からすると、神道的にはどの人物にも魂が宿っているとか、仏教的にはどの心にも仏性があるといいます。
しかし魂も曇りますし、仏性の周りにもそれを曇らせるものが付着しているわけです。
したがって日本人はその「穢れ」(=汚れ)を取り除こうとしてきました。
汚れを取ることで鏡や宝石、鍛えられた刀剣のように光り輝きます。
なので輝かしいものとして、当時の技術の粋である三種の神器が尊ばれましたのかもしれません。また、ご家庭の神棚には鏡が置かれており、本来の自分を魂を映し出す隠喩となっています。
話をもどします。日本人はどのようにして汚れを払ってきたのか。
例えば、何かに一心不乱に物事に打ち込んだり、座禅を組んだり念仏を唱えたりしながら精神を整えてきました。
そして物事に打ち込んだ方々は、剣術や柔術、弓術などの戦いの技、踊りや茶、書などの芸術の技、ありとあらゆる技に道が示され、座禅や念仏を唱えた人たちも同様に魂が磨かれたわけです。
(ただし、他人が作った理想像に驕ったり縋らないことを勧めます。ご自身の精神レベルを上げるのはご自身しかいないからです。他人を嘲笑うものは己を堕とします。なぜならこの世界を認識しているのは貴方ご自身だからです。)
次に「気」の話です。
アインシュタインは質量=エネルギーであることを解き明かしました。
すなわち、世界中のあらゆるものはエネルギーによって構成されています。
したがって、理気二元論で言っている「気」の話は事実です。
陰陽はエネルギーの活性状態の話なので振動の速さを表しているでしょう。
また、五行は原子論の萌芽とみればあながち間違っているとは言えません。
そして、理気二元論ではそのエネルギーの働きが「理」を曇らしていると言っています。
なぜなら我々の住んでいる世界は、そのエネルギーそのもので構成されているからです。
よって、この世にいる時点で「理」は曇っているわけです。
日本人的に考えれば、死ねば皆が仏になるといいますが、それは物質エネルギーの世界から抜けでるからです。
しかし、魂はエネルギーが付着していますので、そのままではエネルギーの層からは抜けられません。
このエネルギーの法則が「カルマ」です。
したがって、そのままでは「輪廻転生」し、また同じような人生を歩むことになります。
その輪廻の輪から抜け出ることが「解脱」となります。
これが仏教の考え方です。
神道的にも宇宙である「高天原」に帰れるということになります。
もともと宇宙人である日本人はこの付着したエネルギーを取り除こうと努力している方が多くいます。これが日本人の魂を磨こうとする努力につながっていると考えます。
以上
蛇足
元々前回の話の続きとして書いたものなのでこちらも触れておきます。
どうやら多くの半島の方々は、「気」によって「性」が汚れていることを忘れて、すでにキレイなものだと勘違いしている可能性があります。
これでは「理」による判断が出来るはずがありません。
そして、それを約束ごとを守らないために自己正当化しています。
その価値観を共有しない他国に提示してしまったら、話ができるはずもありません。
「理」に基づく判断をしたいのであれば「気」に影響されないようにしなければなりません。
日本人が感情による判断を避けるのは、ほんとうの意味での理性をもって判断したいからです。
汚れた魂からは汚れた「情」しか生み出しません。
まずは魂にまとわりつく汚れを磨きとって、荒ぶる魂の揺れを鎮めて、理性をもって判断されたら幸いです。
我々にも「情け」という言葉はありますが、これは慈悲としての意味です。
例えば、親の仇であったとしても改心しているならば許すこともある。
許す側の許容という意味でありアガペーとしての愛です。
そのため許される側も魂を磨いておく必要があります。
したがって、改心していなければ情状酌量の余地無しとしてキチンと法を執行するべきです。
以上
理気二元論自体のコンセプトは良いと思います。
特に間違っているという印象もありません。
儒教の生まれたアジア大陸は大空と大地の続くスケールの大きいまさに大陸であり、天地人の価値観が作られていくのは道理です。
また、言葉の違いがあるだけで今や普遍的な考え方であると考えます。
日本にも朱子学は入ってきていますし、神道や仏教もありますので、形而上の話は馴染みが深いからです。
日本の背景もみておきます。
まず神道的な話からです。
日本は四季折々の豊かで厳かな大自然に囲まれた土地でありますから、万物に霊的なエネルギーが宿っており、それを神聖視してきた背景があります。
自然や生物のエネルギーは時として、暴れますのでそれを鎮めてきました。
暴れる理由、それは魂に汚れが付着していたり、魂が強く揺さぶられているからです。
その汚れを払ったり鎮めたりするトップバッターが各地にいる神主であり、神主の地位の最高位を天皇とし、世襲として我々を守ってきたわけです。ですから尊ばれているわけです。現在も様々な祭祀を執り行っています。
その天皇家の歴史を紐解いたときに、地球人の先祖は天から降りてきていると書かれています。我々の先祖は天皇家に繋がっていますから、我々は宇宙人の子孫であると明言しているわけです。
また、感受性の強い方は宇宙や地球、生き物から発せられるエネルギーの違い等を見たり聴いたり感じたりするでしょうから、体感として理解できると思います。
次に仏教的な話をします。
日本は大陸からやってきた仏教の価値観も有しています。
面白いことに日本の仏教は原始仏教とは違い、あらゆる宗教が混合された密教が中心に信仰対象となっています。
原始仏教は誤解を恐れずにいえば、生きるって苦しいよね?頭すっからかんにしてボーッとしていれば何も考えないから楽だよ?というテクニックのメソッドであり、現代の座禅につながっています。その空っぽの状態に気がつくことが悟りです。悟りのまま生きることができたらきっと楽ちんでしょう。
しかし一般に浸透したのは密教です。大きな違いは信仰する対象があります。
これは神道との親和性が高かったからかもしれません。
一心不乱に祈念しているその瞬間は楽ちんになっていますので、その状態に気がつけば悟れるという点では一緒です。後は信仰する状態のまま生きていればきっと楽ちんでしょう。
違いは自力救済か他力救済かというぐらいでご自身が楽になっていることに変わりはありませんので、各人の責任において何でも良いと思います。
このように、仏教を通じて精神の修養方法として利用できるところを利用してきました。
さて話を理気二元論へ戻します。
まず「性」の話からです。
日本人からすると、神道的にはどの人物にも魂が宿っているとか、仏教的にはどの心にも仏性があるといいます。
しかし魂も曇りますし、仏性の周りにもそれを曇らせるものが付着しているわけです。
したがって日本人はその「穢れ」(=汚れ)を取り除こうとしてきました。
汚れを取ることで鏡や宝石、鍛えられた刀剣のように光り輝きます。
なので輝かしいものとして、当時の技術の粋である三種の神器が尊ばれましたのかもしれません。また、ご家庭の神棚には鏡が置かれており、本来の自分を魂を映し出す隠喩となっています。
話をもどします。日本人はどのようにして汚れを払ってきたのか。
例えば、何かに一心不乱に物事に打ち込んだり、座禅を組んだり念仏を唱えたりしながら精神を整えてきました。
そして物事に打ち込んだ方々は、剣術や柔術、弓術などの戦いの技、踊りや茶、書などの芸術の技、ありとあらゆる技に道が示され、座禅や念仏を唱えた人たちも同様に魂が磨かれたわけです。
(ただし、他人が作った理想像に驕ったり縋らないことを勧めます。ご自身の精神レベルを上げるのはご自身しかいないからです。他人を嘲笑うものは己を堕とします。なぜならこの世界を認識しているのは貴方ご自身だからです。)
次に「気」の話です。
アインシュタインは質量=エネルギーであることを解き明かしました。
すなわち、世界中のあらゆるものはエネルギーによって構成されています。
したがって、理気二元論で言っている「気」の話は事実です。
陰陽はエネルギーの活性状態の話なので振動の速さを表しているでしょう。
また、五行は原子論の萌芽とみればあながち間違っているとは言えません。
そして、理気二元論ではそのエネルギーの働きが「理」を曇らしていると言っています。
なぜなら我々の住んでいる世界は、そのエネルギーそのもので構成されているからです。
よって、この世にいる時点で「理」は曇っているわけです。
日本人的に考えれば、死ねば皆が仏になるといいますが、それは物質エネルギーの世界から抜けでるからです。
しかし、魂はエネルギーが付着していますので、そのままではエネルギーの層からは抜けられません。
このエネルギーの法則が「カルマ」です。
したがって、そのままでは「輪廻転生」し、また同じような人生を歩むことになります。
その輪廻の輪から抜け出ることが「解脱」となります。
これが仏教の考え方です。
神道的にも宇宙である「高天原」に帰れるということになります。
もともと宇宙人である日本人はこの付着したエネルギーを取り除こうと努力している方が多くいます。これが日本人の魂を磨こうとする努力につながっていると考えます。
以上
蛇足
元々前回の話の続きとして書いたものなのでこちらも触れておきます。
どうやら多くの半島の方々は、「気」によって「性」が汚れていることを忘れて、すでにキレイなものだと勘違いしている可能性があります。
これでは「理」による判断が出来るはずがありません。
そして、それを約束ごとを守らないために自己正当化しています。
その価値観を共有しない他国に提示してしまったら、話ができるはずもありません。
「理」に基づく判断をしたいのであれば「気」に影響されないようにしなければなりません。
日本人が感情による判断を避けるのは、ほんとうの意味での理性をもって判断したいからです。
汚れた魂からは汚れた「情」しか生み出しません。
まずは魂にまとわりつく汚れを磨きとって、荒ぶる魂の揺れを鎮めて、理性をもって判断されたら幸いです。
我々にも「情け」という言葉はありますが、これは慈悲としての意味です。
例えば、親の仇であったとしても改心しているならば許すこともある。
許す側の許容という意味でありアガペーとしての愛です。
そのため許される側も魂を磨いておく必要があります。
したがって、改心していなければ情状酌量の余地無しとしてキチンと法を執行するべきです。
以上
コメント
コメントを投稿